モネ、ルノワール、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホなどなど、今では、誰もが名前を聞いたことがある印象派の画家たち。
はじめは、なかなか認められず、「印象派」と言う名称も悪い意味でつけられて名称でした。
宗教や歴史から市民や自然へ(印象派への発展)
18世紀までのフランスでは、歴史画や肖像画が価値あるテーマとみなされ、風景画や静物画は価値が低いテーマとされていました。
歴史画/宗教画>肖像画>風俗画>風景画>静物画の順に価値があるとされていました。
19世初頭-中期になると、そんな画壇のルールにとらわれなず、現実に生活している市民や労働者、自然の姿を描こうとする画家たちが登場し始めます。
既存の展覧会に対抗して独自の展覧会を開催/酷評される印象派
歴史画や宗教的な情景を描くよりも市民の実生活や自然風景を描きたいと思っていた若い画家たちは、なかなか受け入れてもらえない既存の展覧会(サロン・ド・パリ)にかわり独自に展覧会を企画、開催します。
(1874年、第一回印象派展)
この展覧会は、批評家から批判的な反応に会い、モネの「印象、日の出」も酷評され、その作品名から皮肉を込めて、この展覧会は「印象派の展覧会」と言われました。
その後、このグループは、「印象派」という呼称でと呼ばれるようになります。
アメリカでの高評価もあり、徐々に受け入れられる。
印象派展は、メンバーの入れ替わりやメンバー間の対立などを経ながら第8回まで開催されました。
(第2回:1876年/第3回:1877年/第4回:1879年/第5回:1880年/第6回:1881年/第7回:1882年/第8回:1886年)
展覧会を継続して開催するとともに、アメリカやイギリスでも展覧会を開くなど人々の目にふれられていくことにより、人々に徐々に受け入れられていくようになります。
特に、アメリカ市場で高評価を受け、逆輸入する形で、フランス国内でも評価が高まり徐々にサロンでもあたりまえの描写となっていきました。
印象派が登場した背景
産業革命後の当時は、技術革新もあり、少しづつ市民に余裕が生まれはじめました。
また、19世紀後半は、パリで万博が開催され、異文化の美術工芸品が展示されるなど新たな表現方法に接するようになります。
チューブ式絵の具の登場
画家たちがアトリエを出て、外で風景や市民の生活を描くことを可能にしたのがチューブ式絵の具の発明です。
それまでは、顔料を油で溶き、その都度、絵の具を作成していたため、風景といえども、アトリエ内での作品作成となっていました。
「チューブ式絵の具」と「外での作品作成」により、陰にも多様な色付けができるようになり光の表現が豊かになるとともに、点描という技法も生まれます。
パレットで絵の具を混ぜるのではなく、色の点を隣り合わせることにより視覚的に目的の色に見せるという技法です。
写真の登場/写真が身近なものに
カメラが携帯できるようになり、写真がより身近となった時代でした。
目の前のものをそのまま記録することが出来るようになり、本物に忠実に描くことの意味が薄れていった時代です。
画家たちは、現実のものをそのまま描くのではない新しい表現を模索しはじめました。
光の移り変わりや風の動き、人々の活気など、そのシーンの印象を描こうとました。
ジャポニズム/異文化からの新しい表現方法
19世紀後半、パリで万博が開催されます。
1867年の万博に日本は初出展、浮世絵をはじめとした多くの美術工芸品を出品し、初めて触れる日本文化に、ヨーロッパで、日本ブームが巻き起こりました。(ジャポニズム)
平面的な描写、派手な色使い、一般市民が描かれている、上方からの視点での描写など浮世絵は当時の画家に大きな影響を与えました。
ポスト印象派へ/それぞれの画家が自由/独自の視点で描く
現在では、絵画と言えば、風景や静物画、市民の実生活が描かれるのは当たり前ですが、19世紀後半の若い画家たちの既存ルールへの挑戦、チューブ式絵の具とカメラという技術革新、そして、異文化からの新しい表現方法の影響により、受け入れられていきます。
その後、ポスト印象派と言われるゴーギャン、セザンヌやゴッホが印象派の影響を受けつつそれぞれの視点で絵画を描きはじめ、あらたな画風が生まれていきます。
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