フランスの印象派の画家で、裕福な家庭の出身であったことから、他の印象派メンバーを経済面で支援したことでも有名です。
当初、医学を学ぶためにパリに出たバジールは、その後に印象派の主要メンバーとなるモネやルノワール、シスレーなどと知り合い意気投合します。
特にモネとは気が合い、モネの大作「草上の昼食」のモデルも務めています。
作品:病床のマネ
1865年、モネは大作「草上の昼食」の制作にあたり、バジールにモデルになって欲しいと頼みます。
しかし、バジールがモデルを務めるためモネを訪ねた時には、モネは事故で怪我をしてベットで横たわっており、絵画制作できる状況ではありませんでした。
本作品でバジールは怪我したモネの様子を描いています。
「病床のマネ」
(1865年)
医学生であったバジールは、おもりや毛布を使ってモネの痛みを和らぐようにしてあげたと言われています。
治療後、モネはバジールをモデルに「草上の昼食」を描き上げています。
「草上の昼食(中央部分)」
(1865-1866年)
「草上の昼食(左側部分)」
(1865-1866年)
「草上の昼食」はモネ自身で切断、分断されてしまい、左側部分の女性をエスコートする男性がバジールをモデルにしています。
また、バジールはモネの長男ジャンの名づけ親ともなっています。
作品:ルノワールの肖像
バジールはルノワールとも親交を深め、共同でアトリエを使用、そこへモネやシスレーがよく訪れていました。
ルノワール、バジールともにお互いに肖像画を描いています。
「バジールの肖像」
(1867年)
「ルノワールの肖像」
(1867年)
この肖像画を制作したころから、バジールは、後の印象派展のようなサロンから独立した展覧会の開催を考えはじめ、両親の手紙にもその考えを記しています。
普仏戦争への志願
1870年 普仏戦争が勃発し、バジールは入隊を志願します。当時、裕福な家庭の子息は、戦争の際には志願することが普通でした。
「自画像」
(1865-1866年)
同年、バジールは戦死してしまいます。
バジールが考えていた、サロンとは別の展覧会は友人たちが印象派展として実現させ、バジールの遺作も出展。
マネは、自身が保有していたルノワールの「バジールの肖像」をバジールの父親に譲るなどしています。
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